レオ・シラード - Wikipedia

レオ・シラード

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レオ・シラードLeó Szilárd, ブダペスト 1898年2月11日 - カリフォルニア 1964年5月30日) は、ハンガリー生まれのアメリカ東欧系ユダヤ人物理学者である[1][2]。 ハンガリー名はシラールド・レオー (Szilárd Leó)。 またカナ表記ではしばしばジラードとされている場合がある。

日本では一般には、アインシュタインを通じたルーズベルト大統領への進言によって原子爆弾開発のきっかけを作った人物として有名である。 シラードはひとつのことを突き詰めるタイプの学者ではなかったが、感情や既成の価値に捕われることなく自らの誠実さに従って判断することを信条とし、科学のみならず世界情勢に関しても人よりも先を見通すことに長けていた。 研究成果を論文の形で発表するよりも特許を申請することを好み、原子炉を始めとする多くの先進的なアイデアが特許の形で残されている。 また、科学者を組織し、様々なロビー活動を行った。 亡命後はスーツケースを携えてホテル暮らしをし、しばしば一日中、湯舟に浸かって思索するのを好んだ。

目次

[編集] 業績

シラードの研究は時代ごとにその方向を変え、彼の波乱に富んだ生涯と切り離せないものである。 熱統計力学の研究からスタートしたシラードは、1929年に、熱力学第二法則と矛盾するように見えるために長らく熱力学を悩ませていた難題であるマクスウェルの悪魔に関する論文を提出した[3]。 この論文でシラードはシラードのエンジンと呼ばれる理論モデルを用いて、熱力学の概念であったエントロピー情報の概念と直接につながっていることを示した。 この先駆的な指摘は1940年代後半にシャノン情報理論にエントロピーの概念をより明確に導入し、確率論の上で定義された情報が研究対象となるまで長らく忘れられていた。

また同じころ、線形加速器サイクロトロン電子顕微鏡などに関する多くの特許を出願している。 サイクロトロンの特許出願はローレンスによるサイクロトロン実現の 4 年前であった。 また、年齢の離れたアインシュタインとは公私にわたるつきあいをし、可動部のない液体金属ポンプの設計を共に行って有毒な冷媒の洩れ出さない安全な冷蔵庫として特許を取得している[4]

亡命後、生物学への転向を考えたこともあったが、1933年核連鎖反応の可能性に思い至り原子物理学の研究に没頭することとなった。 アメリカ政府にナチスの原爆開発の危険性を訴えつづけるとともに、エンリコ・フェルミに協力して1939年にはウラニウムを使用した核分裂実験での中性子の放出を確認し、さらにマンハッタン計画では、同じくフェルミの元で世界初の原子炉シカゴ・パイル1号の実現に協力した。

マンハッタン計画が日本への原爆投下という意図せざる結末を迎えた後、1947年には分子生物学に転向して、酵素活性の制御の研究などを行った。 1961年には『イルカ放送』(The Voice of Dolphins) という SF 的な短篇集を出版し冷戦下における科学と政治についての彼の世界観を開陳している[5]1962年には、核戦争の脅威を警告し、合理的な軍縮の方法を模索することを目標とする NGO “Council for a Livable World” (住むに値する世界のための協議会) を設立した[6]

[編集] 生涯

[編集] 生い立ち

18歳ごろのレオ・シラード

1898年、当時のオーストリア=ハンガリー帝国ブダペストユダヤ系の土木技師の息子として生まれた。 10 歳のころハンガリーで広く教えられていたマダーチ・イムレ (Madách Imre) による古典的劇詩『人間の悲劇』 (Az ember tragédiája) から大きな影響を受けた。 この話では、アダムルシファーに導かれ天地創造から未来の氷河期までの人類の歴史を旅し、人類は破滅を運命づけられており、人生とは無意味なものであることを説く内容であった。

高校生のときに第一次世界大戦が始まると、すぐさま自国の敗北を見通し、周囲に公言していた。 王立ヨージェフ工科大学 (Royal Joseph Technical University) に入学した翌年の1917年に士官候補生として徴兵されたが、重い流感にかかって休暇をとっている間に所属部隊が全滅し、あやうく難を逃れた。 このときのシラードはオーストリア=ハンガリー国内で報告された最初のスペイン風邪の患者だったと言われている。

[編集] ベルリン時代

敗戦後のハンガリー国内の政情の混乱を受けて1919年ベルリン工科大学に移ってから、アインシュタインラウエプランクなど一流の物理学者に出会い、工学から物理学の研究に転じる。 1923年にベルリン大学のラウエの元で博士号を取得し1927年に大学の私講師となった。 このころ、熱力学と情報についての先駆的研究や、粒子加速器などについての多くの特許が出願されている。 彼はまた、SF 作家 H・G・ウェルズの大ファンとして知られ、彼の小説をドイツ語圏に紹介することに尽力した。

シラードは1930年代よりドイツにおいて台頭してきたナチスに強い危機感をもっていた。 1933年 1 月にナチスが政権を握り、翌月には国会議事堂放火事件が起きるとシラードはナチスの関与を嗅ぎ取り、その数日後には単身でドイツを後にした。 友人のマイケル・ポランニーはシラードの心配を杞憂だと引き留めたが、果して、シラードが国外で最初に耳にしたニュースは、ドイツのユダヤ系学者の公職追放の決定であったという。 シラードは亡命先のロンドンで次々にドイツを脱出してくる学者の受け入れ先の確保のためにしばらくの間駆け回ることとなった。

[編集] 連鎖反応

1933年 10 月、シラードはロンドン・サザンプトン通りの交差点で信号待ちをしている間、前年発見された素粒子中性子による核分裂の連鎖反応の理論的可能性に不意に思い至った。 電気的に中性な中性子は容易に原子核に衝突させることができ、もしそれによって複数の二次中性子を放出するような種類の原子が存在すれば、莫大な核のエネルギーが放出されることになる。 この連鎖反応というアイデアにはシラードが亡命後読んだウェルズの『解放された世界』[7]が影響している。この SF では原子エネルギーの開発とそれによる核戦争の勃発が予見されていた。

シラードはすぐさま核エネルギーに関するいくつかの特許を取得した。 後には、核エネルギーのアイデアがナチス・ドイツに洩れることを防ぐために、これらの特許をイギリス軍に譲渡し秘密扱いにするよう申請したものの、イギリス軍がその重要性を理解することはなかった。 その後、シラードはいくつかの根拠からベリリウムインジウムウラニウムなどを連鎖反応を生成する可能性のある有力な候補とみなしたが、亡命先でしっかりした地位のなかったシラードは資金難から十分な実験を行うことはできなかった。

1936年にナチス・ドイツが条約を破棄して軍をラインラントに進駐させるとシラードはヨーロッパでの戦争の勃発を確信するようになった。 第二次世界大戦が始まる前年の1938年にはオックスフォード大学の研究員を退職し、再びあてのないままアメリカへと渡った。 同じ年、シラードはアメリカでドイツのオットー・ハーンらによる中性子によるウラニウムの核分裂実験の成功を伝え聞くことになった。 これは連鎖反応が可能であるという危惧を現実に近付けるものであり、シラードはナチスが原子爆弾を先に完成させるのではないかという強い危機感を抱くようになった。

コロンビア大学エンリコ・フェルミを説得し、1939年ウラニウムの核分裂実験を行った。 フェルミはここで高速な二次中性子が放出されることを確認することとなった。 シラードはこの結果を秘密にしておくよう主張したが、コロンビア大学での公的な地位を持たなかったためもあり、フェルミや大学の関係者に押し切られる形で結果は公表されることとなった。

[編集] アインシュタインの手紙

この時期、シラードは旧知のユージン・ウィグナーエドワード・テラーとともにアメリカ政府に対してナチスの核開発の危険を訴えつづけたが、これら亡命科学者たちの訴えはほとんど反応を起こすことはできなかった。 アメリカ政府への核開発の働きかけとして現在とりわけ有名なルーズベルト大統領に対するアインシュタインの手紙はこうした中で作成されたものであった。

シラードによれば、この大統領への覚え書きが作られた経緯は以下の様であった。 当初、シラードらはベルギーコンゴで採掘しているウラニウムがナチス・ドイツの手に渡ることを懸念していた。 アインシュタインがベルギーの女王との交流を持っていることを知っていたシラードは、ウィグナーとともにアインシュタインを通じて女王への手紙を依頼しようとしていた。 しかし、頭越しに外国へ接触することをアメリカ政府が嫌うことを懸念したシラードらは、まずアメリカ政府へのコネのある科学者への接触を試みることになった。

彼らが接触したアレクサンダー・ザックス (Alexander Sachs) は、当時から抜群の知名度があったアインシュタインが手紙を書けば直接大統領へ手渡すことを約束した。 こうして交渉の相手はアメリカ大統領となり、シラードが 2 つの案を起草し、アインシュタインが選択し署名した手紙が1939年 8 月にホワイト・ハウスへ届けられた。 この手紙では、連鎖反応が近い将来実現されるであろうことと、それが強力な爆弾となり得ることを指摘した上で、アメリカ政府の核エネルギーへの関心の喚起と当面の研究資金の支援を訴え、さらに核エネルギーの研究がすでにドイツの政府レベルで行われていることを示唆させる事実を指摘していた[8]

[編集] マンハッタン計画

アインシュタインの手紙によって1939年 10 月にはウラニウム委員会が作られ、陸軍から少額の研究資金が直接与えられることが決定された。 これによって、1940年、シラードとフェルミは黒鉛の中性子吸収に関する実験を行ない、それが極めて低いものであることを突き止めた。 核分裂で放出された二次中性子が連鎖反応を引き起こすには、中性子の速度を落とす適当な減速材が必要である。 実験結果は、黒鉛を減速材として用いた連鎖反応が有望であることを示していた。

1940年 6 月、ウラニウム委員会はヴァネヴァー・ブッシュの科学研究開発局のもとへ引き継がれることとなり、4 万ドルの資金がコロンビア大学へ与えられた。 シラードはコロンビア大学から正式に雇用され、フェルミに協力して高純度の黒鉛やウラニウムの調達に奔走した。 有効な連鎖反応の実現にはウラニウムの同位体のひとつであるウラニウム 235 を分離することが必要であった。 イギリスに亡命していたオットー・フリッシュ (Otto Frisch) らによってこの分離が可能であることが示され、イギリス政府からアメリカ政府へ原子爆弾の可能性が報告されると、シラードが訴えてきた連鎖反応の理論的可能性は原子爆弾という兵器の実現可能性としてようやくアメリカ政府の関心を引くものとなった。 1942年 6 月、陸軍の管理下で原子爆弾実現のためのマンハッタン計画が開始された。

原子炉シカゴ・パイルの開発者たち。中列一番右の明るいコートの人物がシラード。前列一番左はエンリコ・フェルミ。

シラードは場所をシカゴ大学アーサー・コンプトンの元へと移していたフェルミの研究に参加した。 シカゴ市の中心部に作られた世界初の原子炉、シカゴ・パイル1号は1942年12月2日臨界を記録した。 シラードはフェルミに対しこの日を「人類にとっての暗黒の日」として記憶されるだろうと述べている。 その後、シカゴ大学冶金研究所 (Metallurgical Laboratory) で原子炉の冷却の問題と原子炉によるプルトニウムの生産の問題に関わった。

ようやく開始されたマンハッタン計画であったが、科学者間の自由な言論を尊重したシラードは、計画の指揮官であり秘密主義的な運営方針をとったレズリー・グローヴズ准将と当初から折り合いが悪く、計画の運営に公然と異議を唱えだすのに時間はかからなかった。 こうして陸軍の反感を買ったこの連鎖反応と原爆開発の提唱者は、あやうく拘禁こそ免れたものの、陸軍の常時の監視下に置かれることになった。 シラードは決定権をいささかでも科学者のもとへ取り戻す足掛かりにしようと原子炉に関する特許の申請に動いたが、フェルミとシラードの原子炉に関する特許が認められたのは戦後になってからであった[9]

[編集] 日本への原爆使用

1945年3月、連合国ストラスブール占領によって、ナチスの原爆開発の脅威がないことが明らかとなり、一方東京大空襲など日本に対する大規模な爆撃が始まると、日本に対しての原爆使用を懸念したシラードはアインシュタインを通じて再びルーズベルトへ接触しようとした。 アインシュタインには計画の存在すら知らされておらず、シラードは機密性の保持から内容について一切相談できなかったにも関わらず、これによって大統領夫人のエレノア・ルーズベルトとの面会の約束をとりつけることができた。 しかし、この望みが果たされるより先の4月12日に、ルーズベルトの急死のニュースが告げられた。

ハリー・S・トルーマン新大統領への接触工作をはじめからやり直し、数日後、後の国務長官ジェームズ・F・バーンズ (James F. Byrnes) との会談にこぎつけた。 ここでシラードは、現在の状況ではなく数年後に予測される状況に基づいて原爆に関する決定を行うべきであるとした上で、核時代におけるそうした将来予測は科学者こそが正確に評価できるものであり、爆弾に関する政治的決定に科学者の意見を尊重することを訴えた。 そして、実際原爆を日本に対して使用し原爆の存在が明らかになれば、数年でソ連も原爆を開発し両国を破滅させかねない核開発競争に突入するだろうと主張した。 バーンズはソ連が短期で核兵器を開発するとは理解せず、むしろ原爆の使用がアメリカの優位を誇示しソ連を扱いやすくすると考えていたため、このシラードの主張を受け入れることはなかった。 このころには、すでに日本への原爆投下が避けられないことがシラードらには明らかなものとなっていた。

6 月には冶金研究所の科学者たちが科学者の観点から原爆の政治的影響を報告したフランクレポートの委員に名を連ねた。 この報告書では、戦後、軍拡競争に陥らないよう核兵器管理体制を構築すべきであるとし、そのために日本への無警告での原爆投下に反対していた[10]。 さらに 7 月には倫理的観点から日本への原爆使用に反対する大統領への請願書[11]を独自に起草し、冶金研究所の科学者に回覧して 70 名の署名を集めた。 しかしこの請願書は大統領がポツダム会談で海外にいることなどを口実にグローブズに差し止められ、8月6日前に大統領に届くことはなかった。

シラードは広島長崎のニュースによってその努力が報われなかったことを知った。 彼は妻への8月6日付けの手紙の中でそれが政治的にも道徳的にも史上最大の過ちであると述べている。 原爆投下直後にはシカゴ大学学長であったロバート・ハッチンス (Robert Hutchins) を通じて戦後世界における原子爆弾の意味について討議する有識者会合を行った。 さらにアメリカとソ連の科学者による会議を構想したが国務長官バーンズの反対で実現はしなかった。

[編集] 戦後

1947年、シラードは物理学から分子生物学へと転向した。 1949年、ソ連が原爆開発に成功し、米ソが際限のない核開発競争に突入すると、1950年にシラードは彼なりの警告としてコバルト爆弾 (cobalt bomb) のアイデアを提出した。 この爆弾はとりわけ長期の強い影響を残すコバルト 60 を含む放射性降下物を生成し、シェルターへの短期間の退避を役に立たないものとする。 シラードはこれをすべての生命を死滅させることが可能な兵器だと表現した。 その後1957年にはパグウォッシュ会議に参加するなど、核開発に反対する独自の活動を続けたが、ここでも核実験を大いにやらせればよいといった独創的な意見を表明して他の参加者たちをまごつかせたという。さらに、『核兵器といかに共存するか』という論文を発表していわゆる核抑止論を表明し、パグウォッシュ会議の参加者であった湯川秀樹らからは反発を受けた。

1960年膀胱癌を患い、自らのアイデアである放射線治療を受けた。 晩年はソーク研究所のフェローとして過ごし、1964年、心臓発作のため 66歳で死去した。 彼に因み、月面の裏にある直径 120 km あまりのクレーターシラード (Szilard) の名が与えられた。

[編集] 参考文献

  1. ^ ウィアート, S. R., シラード, G. W. 編 (伏見康治, 伏見諭 訳) 『シラードの証言』 みすず書房、1982年。ISBN 4-622-02430-6 Weart, S.R. and Szilard, G. (eds.) (1978). Leo Szilard: His Vision of the Facts. MIT Press. 
  2. ^ ローズ, リチャード (神沼二真, 渋谷泰一 訳) 『原子爆弾の誕生 (上/下)』 啓学出版 1993年; 紀伊國屋書店 1995年。ISBN 4-314-00710-9 (上巻), ISBN 4-314-00711-7 (下巻)。 Rhodes, R. (1987). The Making of the Atomic Bomb. Simon & Schuster. 
  3. ^ Szilard, L. (1929). “Über die Entropieverminderung in einem Thermodynamischen System bei Eingriffen Intelligenter Wesen”. Zeitschrift für Physik 53: 840–856. 英訳 : Rapoport, A. and Knoller, M. (trans.) (1964). “On the Decrease of Entropy in a Thermodynamic System by the Intervention of Intelligent Beings”. Behavioral Science 9: 301–310. また英訳は次の書籍にも再録されている : Leff, H.S. and Rex, A.F. (eds.) (2003). Maxwell's Demon 2: Entropy, Classical and Quantum Information, Computing. Bristol: IoP Pub., pp. 110–119. ISBN 0-7503-0759-5. 
  4. ^ Einstein, A. and Szilard, L. (1930-11-11). "Refrigeration (U.S. Pat. 1781541)". Google Patent Search. 2008-05-24 閲覧。 ― アインシュタインとシラードの安全な冷蔵庫に関する特許 (アメリカで申請されたもの)
  5. ^ シラード, レオ (朝長梨枝子 訳) 『イルカ放送』 みすず書房、1963年。 Szilard, L. (1961). The Voice of the Dolphins: and Other Stories. (拡張版, 1992), Stanford Univ. Pr.. ISBN 0-8047-1754-0. 
  6. ^ "Council for a Livable World". 2008-05-24 閲覧。
  7. ^ Wells, H.G. (1914). The World Set Free.  邦訳は例えば : ウェルズ, H.G. (浜野輝 訳) 『解放された世界』 岩波書店、1997年。ISBN 4003227664
  8. ^ "Einstein's Letter to President Roosevelt — 1939". The Nuclear Age Begins, Historical Documents. atomicarchive.com. 2008-05-24 閲覧。
  9. ^ Fermi, E. and Szilard, L. (1955-05-17). "Neutronic Reactor (U.S. Pat. 2708656)". Google Patent Search. 2008-05-24 閲覧。 ― フェルミとシラードによる原子炉の特許
  10. ^ "The Franck Report". Leo Szilard Online. 2008-05-24 閲覧。 邦訳 : "フランク報告". 佐賀大学物理科学科 豊島耕一ウェブ・ページ. 2008-05-24 閲覧。
  11. ^ "A Petition to the President of the United States". Leo Szilard Online. 2008-05-24 閲覧。

[編集] 関連書籍

  • ウィアート, S. R., シラード, G. W. 編 伏見康治, 伏見諭 訳 (1982) 『シラードの証言』 みすず書房 ISBN 4-622-02430-6
  • ローズ, リチャード 著 神沼二真, 渋谷泰一 訳 (1993) 『原子爆弾の誕生』 (上/下) 啓学出版. (1995) 紀伊國屋書店 ISBN 4-314-00710-9 (上巻), ISBN 4-314-00711-7 (下巻)
  • Lanouette, W. and Silard, B. (1994) “Genius in the Shadows: A Biography of Leo Szilard, the Man Behind the Bomb” Univ. of Chicago Press, ISBN 978-0-226-46888-4 (pbk)

[編集] 外部リンク

  • Leo Szilard Online ― Gene Dannen によるシラードと関連文献を収録したサイト。
  • Council for a Livable World ― シラードらが理性的な核管理と現実的な核軍縮の方法を探るために1962年に設立した NGO。

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